3.11の前と後、

3月10日。
小林秀雄『モオツァルト』を読んでいた。
 
「凡そ行為は、無償であればある程美しく、
無用であればある程真実であるというパラドックス・・・」
 
「・・・不平家とは、自分自身と決して折り合わぬ人種を言うのである。
・・・強い精神にとっては、悪い環境も、やはりあるがままの環境であって、
そこに何一つ欠けている処も、不足しているものもありはしない。」
 
 (小林秀雄『モオツァルト』より)
 
 この2つのフレーズが、心に響いた。

 しかし、3月11日を経過した後になると、
この2つのフレーズは、明らかにより大きなもの、深いものを
僕らに想起させる。

 それは、この2つのフレーズが3.11を境に変わってしまったわけではない。
僕らの方が、様々なことを経験し、見て、聞いて、感じて、考えさせられて、
その結果、この2つのフレーズの意味するところをより大きく、深く感じられるようになったのだ。

 3.11を境に、3.11の前と後で、日本の有り様が、
日本に住む私たちにとってこの世の有り様が、
大きく変わってしまったことを指摘する人がいる。

 これまで、何気なく、当たり前に思い、無意識に頼っていたものが、
如何に脆く、儚いものであったのかを思い知った。
 これまで、取るに足らないこと、些末なことと思っていたものが、
いかに有り難く、大切なもので、僕らを支えていてくれたのかを思い知った。
 
 僕たちは大切なものを失ったと同時に、大切なものを手に入れたのである。
 

3.11を境に、
 世界が変わってしまったわけではない。

 私たちが、様々なことを経験し、見て、聞いて、感じて、考えさせられて、
その結果、より大きく、深く感じられるようになったのだ。