がないと、言うのをよく聞く。
でも、本当だろうか?
なにも、教科書を広げて机に向かうことばかりが勉強ではない。
ちょっと見方を変えると、
四六時中、起きてから眠るまで、
それこそ僕らが直面するあらゆる場面で、
勉強させられることは多い。
幾つになっても、
知らなかったことや、新しい発見があって、
学ぶことは尽きない。
いつまでたっても、
上手くいかないこと、思うとおりに出来ないものがあって、
まだまだ修行を積まなければならない。
いったい何時になったら、
もうこれで十分だ、勉強し尽くした、完成したという、
境地になるのだろうか。
死んで、この世を去る時というのが、
もうそれ以上上達する余地がないという意味で、
完成する時なのかも知れない。
小林秀雄は「無常という事」の中で、
川端康成のこんな言葉を引用している。
『生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。
・・・(中略)・・・
其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。
何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。
まさに人間の形をしているよ。
してみると、生きている人間とは人間になりつつある一種の動物かな』
生きている人間とは、
形も定まらず、安定せず、この先も確かではないからこそ、
生き生きして見えるのかも知れない。
花が生き生きと美しいのは、
その盛りが一瞬のことで、
その一瞬にありったけの力をふりしぼって、
その先、萎れ、枯れ、朽ちていくからこそで、
造花のように半永久的に枯れないのであれば、
あのように心に響きはしないだろう。
まだまだ勉強せねばならぬことが山積していると、
自覚する今こそが花なのかも知れない。
そして勉強すべきことは、
今日の一日を生きることの中に、
たっぷりと詰まっているのだ。